(仮)

思ったことを書く。生産行為練習中の人生詰んでるクソ学生の雑記。ミュージカル鑑賞が好き。

ミュージカル「パレード」

※今回もネタバレ大いに含みます。※
f:id:Poppo_810:20170617015538j:image
ミュージカル「パレード」観劇しました。
スケジュールと経済的な都合で、図ったわけではないのですが大千穐楽公演。
取り敢えず、今作を観ることになった経緯から書くことにします。

 

 上演決定時から面白そうなミュージカルがやるぞ、と知ってはいましたが、このレミ期間に(わたしはレ・ミゼラブルを愛してしまっているので、色々な都合からレミ上演期間中はレミ一筋になりがちです)わざわざ観に行くことになろうとは思ってもいませんでした。
大好きな某パーシー石丸幹二さんと大好きな某ダルタニアン小野田龍之介さんが出ているぞ、他のキャストも歌うま揃い、それに題材も面白そうだ、と言うわけで気になってはいましたが…。
観てしまった…観てしまったよ…このレミ期間のお金の無い時に観てしまったよ…

何故最後の最後に観てしまったのか。
その理由は言われ尽くしているとは思いますがやはり観劇した方々の口コミにあります。
私のようなレミに取り憑かれた人間ばかりで構成されているはずのTwitterが「パレードはすごいぞ」「観るべきだ」「観ないと後悔」のようなツイートで埋め尽くされたのです。
マジかお前らレミに魂抜かれたんじゃなかったのかよみたいな方々が逆に「パレード」に取り憑かれていくのです。
そしてああこれは抗えない流れだぞ、と思っていたところ、フォロワーさんに直に「パレードはいいぞ…」とダイレクト布教をされてしまったところで意識が途絶え、意識が戻ると手元には発券済のチケットがありました。
というのが私がこの作品を観劇するまでの経緯でした。(あほ)
この熱狂の広がり方、このチケットの売れ方知ってる…そう、それは、1789……!!と密かに思っていたことをここに報告しておきます(1789も海外版のCD売り切れか品薄か価格高騰かになってましたよね)。
 ってことは再演ありますねヤッター!(気が早い)

 

 

*

ここから先は完全にネタバレ有りです。ご注意ください。

拙い感想を幾つか。

 

*

今作の大まかな印象として、ミュージカルの幅の広さを改めて教えてくれたなあ、という印象があります。

今まで見たミュージカルとは一線を画したストプレ感。

ミュージカルってこんな表現ができるんだ!?って思う程のストプレ感、即ちリアリティ。

ミュージカルは歌って踊る時点でどうしてもファンタジーになってしまうんだね、なんてことにこの作品を観て恥ずかしながら初めて気が付きました。慣れって怖い

この作品はファンタジーになりがちなミュージカルという形態でありながら非常にリアルで…って、それしか言ってないな。

とにかくあのリアリティを以て現実問題として突き付けられるメッセージ"This is not over yet"は我々観客の心に確かに深く刻まれた事でしょう。

 

*

This is not over yetとは

今作のメインメッセージであり、

劇中ではレオ達の希望の歌の曲名、

でも幕が下りるとこの言葉は希望ではなく絶望と共に我々への警告となる。

先述のリアリティのある演出も、客席に容赦なく降り注ぐ眩い照明も、我々にこのメッセージを伝えるためのものでした。

劇中で「まだ終わりじゃない」と訳されたこのフレーズが我々に投げかけたのは

「決して過去の話ではない。今現在も続いている(not over yet)問題である」

というメッセージでありました。

レオ・フランクを忘れるな。あの悲劇を忘れるな。劇中の人々の血走った目を忘れるな。死刑宣告時の民衆の熱狂を忘れるな。…

 

*

登場人物について。

わたし的に一番悲しいなと思ったのはフランキー。

小野田くんが個人的に好きなので感情移入してしまうというのもあるし、そもそも彼には感情移入せざるを得ない素晴らしい演技力があります。すき!!

さて、何故レオでもメアリーでもなくフランキーが悲しいのか? 

それは、これからの長い長い人生を罪を背負って生きなければならないからです。

フランキーは17歳の少年です(劇中のどの時点でかは公にされていないのですが)(あとメアリーとのやり取り見てるともっと幼く見えたのはわたしだけ?)。

現代の私たちの感覚からすると17歳というと高校生、まだまだ子供です。

そんな子供が大切な人を失い、そして自ら大きな大きな取り返しのつかない罪を犯してしまうのです。

幼く、自分の行為を裁きの鉄槌と信じ込んでいた所もあるでしょう。自分は神だと、メアリーの騎士だと。

そして、死んだ二人とは違い、生きているからこその苦しみを持ち続けなければなりません。

劇中では彼のその後は描かれていませんが、彼はあの後罪悪感に襲われ続けるのではないか、まともな精神状態で生きれる訳がないのではないか、と思いを巡らせてしまいます。

あの悲劇がなければ、大人がレオを犯人に仕立てあげなければ、きっと彼はあんなに重い罪を背負わずに生きていられた。

そう思うと、やりきれない気持ちでいっぱいになります。

そして、たった17歳の少年にあんなに歪んだ正義感を植え付けた大人達を恨まざるを得ません。

 大人達に関しては嫌悪感でいっぱいなので(わたしもまだまだガキなのである意味フランキー状態なんですよね、多分)今回はコメントを避けますが、こんなに嫌悪感でいっぱいになれるのもキャストの皆様の素晴らしい演技あってこそです。

本当に素晴らしいものを見せていただいた。

本当に本当に、許せないけれど。

 

*

最後に、今を生きるわたしがこの作品に思ったこと。

わたしがミュージカルでよく見る民衆は大抵愚かで煽動されやすく、無力です(わたしのとても狭いミュージカルの世界はほぼ19世紀頃のフランスあたりで構成されているから…)。

しかし、19世紀フランスではほぼ無力だった民衆が今作20世紀アメリカでは大きな力を持っていました。

アメリカだから。

アメリカでは民衆は権力者でした。それも、愚かで煽動されやすいまま、大きな権力を持ってしまった。

劇中の名も無い南部の民衆は、南北戦争中の価値観そのまま、戦没者追悼記念日には老兵を讃えるパレードを開催し、子供も大人もそのパレードに連合軍旗を振っていました。

北部人への敵意識は消えずに、戦争が終わった当時には根深い差別や偏見へと繋がっていきました。

アトランタの民衆が思い描く典型的な北部人で、それもユダヤ人であったレオは権力者たる民衆の格好のエサとして、証拠も無いまま叩かれ尽くされ、最後には…

…と、この感じ。最近どこかで見たような気がしてならないのは、きっと米大統領選のことでしょう。

当時の南部と北部の分断、アトランタの民衆の人種差別的思想は現代のアメリカの内陸部と沿岸部の分断や、彼の大統領や支持者の人種差別的思想を連想させます。

劇中アトランタの人々が北部人に抱く妬みや恨みは、彼の大統領の支持者である内陸部の白人が移民などに抱く妬みに似ています。

さて、劇中でパレードに歓声を上げ軍旗を振る人々と現代社会で彼の大統領に喝采を送り国旗を振る人とはどこに違いがあるのでしょう。

天国のレオフランクはこの情勢をどう見ているのでしょうか。

第2のレオフランクは本当に、本当に誕生し得ないのでしょうか。

(特定の人物や特定の政治的思想を批判しているわけではありません。思想は自由。だから殺さないで)

 

と、このように某大統領を強く連想しすぎて、わたしたちの住む日本ではどうなのかはあまり考えられませんでした。

国の分断?そんなものがある気はあまりしていないし、そこまで深刻な問題が顕在しているとは思えないし…。

…と思うわたしこそ、誤った正義感からパレードに旗を振り、民衆のひとりとして「レオ・フランクを殺せ!」「あのユダヤ人を吊るせ!」と叫ぶのかもしれない、知らぬ間に罪のない人の首を絞めているのかもしれない、と気づいた時は流石にゾッとしました。

This is not over yet.

明日は我が身。

 

 

✄--------------------------

感想がいい感じに終わってしまったので書けませんでしたが、今作は舞台作品としてとっても素晴らしいものがありました。何様って感じですが。

印象的な紙吹雪。最初にこんなに降らせちゃっていいの!?お掃除大変じゃん!?と思ってしまったのですが、実は演出で降らせただけでなく舞台セットとして大樹と同じくずっと事件を見ていたのには驚きました。

そして冒頭ではあんなにかっこよく勇ましく思えたスネアドラム(無知すぎて死刑執行時にドラムを鳴らすなんて知識無かったです)がラストシーンではもうやめて!と演奏者さんの腕を握って止めたくなるとは…

言わずもがな、キャストの皆様の演技も素晴らしくて!!

素晴らしい作品でした…とてもよかった…本当に良いものを見させて頂いて本当にありがとうございますCD待ってます…

✄--------------------------

しかし観劇って本当に素晴らしい趣味ですね!

他人の人生を生きてみたり、神の視点で見てみたり。

その体験から自分を見つめ直せる。

なんて素晴らしい趣味なんだ!!!

観劇の喜びを再確認させてくれたこの作品に深い感謝と敬意を表します。

 

 

作業中BGM↓

・「悲しみの報い」- 1789 バスティーユの恋人たち

・「ブイドイ」- ミス・サイゴン

 

舞台オタクによる感想「ユーリ!!! on ICE」

「僕らは愛と呼ぶ 氷の上のすべてを」

 

ポッポです。

追いかけていたアニメ「ユーリ!!! on ICE」(以下ユーリ)が最終滑走を終えたので感想のような文章を書こうとしてみんとて、するなり、です。

 

わたしは元々フィギュアスケートが好きです。

中学生の頃、テレビで羽生結弦選手の演技を見て釘付けになり、ニコニコ動画の素晴らしい動画群に背中を押されてスケオタの世界に入りました。

今でこそそこまで熱心に追いかけている訳ではありませんが、一時期は寝る暇も惜しんで海外のストリーミングを見たり、大して英語力も無いのに海外の記事を読んだり、授業中にこっそりオンリザ観戦をしたりとまあまあ熱心なスケオタだったのではないでしょうか。(知識はあまり無かったけれど)

そんな熱心なスケオタ業(Twitter)をしている最中、飛び込んできたスケートアニメ制作決定の報。

スケオタになる前は二次元オタクをしていたわたしですから、すぐに食いつき、放送を待ちました。

ビジュアルが公開され、キャラが公開され、声優が公開され、放送日が公開され…

とてもワクワクしながら、待ちに待った第一滑走に、雷に打たれたかのような衝撃を食らったのを覚えています。

ちなみにわたし、基本的にアニメを見ません。ストーリーものはアニメだろうとドラマだろうと殆ど続きません。

そんなわたし、ポッポによるユーリの感想のようなものです。

 

 

冒頭にも引用した勇利のセリフ、「僕らは愛と呼ぶ 氷の上のすべてを」がこのアニメを象徴しているように思います。

愛。

ユーリの世界の氷の上ではさまざまな「愛」が表現されてきました。

恋愛、性愛、友愛、師弟愛、無償の愛、家族愛、、、

登場人物の誰もが「愛」に生き、人々と関係を築いていく世界。

そして、二者が結んだ愛が決して他者により否定されることのない世界。

わたしはこの世界が大好きです。

このアニメ、「本格フィギュアスケートアニメ」を謳っていますが、物語の軸はフィギュアスケートではなく、愛のように思えます。

 

 

勇利とヴィクトルについて書きたいと思います。

というか、このアニメの感想を書くなら書かなければなりません。

勇利とヴィクトルのあの親密な関係性については、カップルだ、ブロマンスだ、ただの師弟愛だ、と様々なことが言われていますが、わたしはこの全てに違うと言いたいです。

それは、勇利とヴィクトルの関係性はこの作品を象徴するもので、愛という言葉にはまらないものだと思っているからです。

意味わかりませんね。

わたしもわかりません。

まあ勇利も「愛"と呼ぶ"」と言っていますし、そういうことなんですよ。

恋愛やら性愛やら、愛のつく言葉を並べておきながら、わたしはこのアニメを見て「人間の関係性の全てが一般的な名詞に当てはまるわけなくね?」と考えています。

まあ、そういうことなんですよ!

そういうことなので、12回に渡ってあれだけのエピソードを我々に見せてくれた勇利とヴィクトルの関係性を一般的に愛と呼ぶことはわたしには憚られます。

敢えて言うなら、様々な側面を持った2人の関係性は、「愛」の集合体とでも言うようなものでしょうか。

勇利がヴィクトルの愛好者であったこと、距離が縮まるにつれ深まる師弟愛、寝食を共にしたことによる(血は繋がってないにせよ)家族愛、対等な関係になり喧嘩までするようになる友愛、お守りのペアリングや結婚発言で色が強まった恋愛、性愛…

これだけ沢山の要素を持った関係性を端的に表現できる言葉を私は知りません。

勇利とヴィクトルの間には、これだけ沢山の「愛」がある、2人は「愛」の集合体であり、この作品の軸である「愛」の象徴である、と私は考えます。

「愛(のようなもの)」と表現したいところですけど。

 

 

そして、勇利とヴィクトルに関係して、「ユーリはBLアニメじゃねえぞ!」問題について。

わたしはBLだと思っていないこと、2人の関係性がボーイズラブという一般的な名詞に当てはまらないのはちゃんと読んでくださってる方ならわかってくださると思います(ありがとうございます)しこれ以上書きません。

しかし、やはり際どい(とも言いたくないんですけどね!仕方がない)描写に、これは…となる視聴者の皆様の気持ちも大いにわかります。

画面のこちら側の皆様は、2人の距離がやけに近いとホモだ!と大声を上げ、2人が指輪を交換すればホモだ…!と阿鼻叫喚になったと思います。墓掘りの皆様お疲れ様でした。(このようによく使われる「ホモ」という言葉が直接ホモフォビアを指す言葉ではないことをわたしは知っています。腐女子だから。)

一方で画面の向こう側のキャラクター達は何事も無かったかのように演技に拍手や歓声を送り続けたり、目を輝かせ結婚(してないけど)を祝福し街の人まで巻き込んで拍手を送ります。

ユーリの世界は他人の愛を否定しない世界だから、同性であろうと国が違かろうと関係ないのです。

現実の世界がユーリの世界みたいになったら良いのになーって話はあとで、画面を隔てた2つの世界の反応がここまで違うことが面白いなと思った話をさせてください。

わたしは今はただのミュージカルオタクです。

アニメなんて久しぶりに見ました。

舞台の世界では、ラケットを振ればそこに存在しない珠が飛んだり、ハンドルを握り足踏みをすればそこに存在しない自転車でのレースが始まります。

離れ離れであるはずの恋人が舞台の真ん中に立ち隣同士で歌っても、そもそも登場人物が突然歌い出しても誰もおかしいとは言わない、かなり変わった世界です。

わたしが大好きな大好きなミュージカルで言っていました。

「舞台と客席は共犯関係!みんなで一丸となって嘘をつき騙されます!」

わたしたちミュージカルオタクは演者が堂々と発する「嘘」にすすんで「騙され」にいきます。

この「共犯関係」が染み付いているからこそ、アニメ側が発する「愛を否定しないことが当たり前」という悲しいかな「嘘」に、すすんで騙されに行かない、行けない視聴者側に少し疑問すら抱きましたし、面白いなと思ったのです。

確かに舞台では、演者と観客は同じ空間にいますし、暗転という素晴らしいツールによって現実から隔離されます。

また、生での表現には制限がありすぎます。

対してアニメは少し目を逸らせばいつものクソみたいな3次元ですし、OPがあれど暗転ほど効力のある現実隔離ツール(?)を持ち合わせていません。

そして、アニメは例え現実に存在しないものでもそこに描いてしまうことができます。

確かにこれではアニメ視聴者には舞台オタクのような「共犯関係を結ぶ能力」が育ちませんし、必要がありません。

しかし、わたしからするとユーリにおいては必要でした。

ユーリは騙されてくれない視聴者にさらっと「嘘」をついてきました。

このギャップが、視聴者が混乱させてしまったのかなーと思います。

ユーリの世界では同性愛であろうと当たり前だし、特別なことではないので取り上げる必要がない。

でも視聴者の世界では当たり前ではないし、特別なことだからBLだホモだと言う。

舞台オタクとしてユーリの世界と共犯関係を結んだわたしにはなかなか気づかなかったギャップなので、ここに書き留めておきたいと思います。

 

 

最後に。

ユリオの話とか好きなキャラの話とかもっと書きたいことはあるんですけど疲れたので辞めときます。

最後に言いたいのは、「ユーリの世界は我々の世界の近未来」説。

 このままいけばユーリのような4回転のインフレは起きるでしょうし、中国杯で車が置いてあるなど妙にリアルすぎる設定に、「ユーリの世界はわたしがいるこの世界の続きかもしれない」と思わされました。

サグラダファミリアはまだまだ工事中でしたけど…笑

それだけに、「愛を否定しない世界」が「嘘」にならない未来が近いうちに訪れると嬉しいな、と思います。

 

長々と失礼しました。

 

同年代の人にもっとミュージカルを観てほしい話

こんにちは。ポッポです。

長文を書くのがそんなに苦じゃないと知ったので、さっそく2回目の投稿をしてみます。

タイトルを見て、わかる人にはどんな話でどんな結論に至るのか既に見えてるやつだと思うんですけど、温かく見守ってください。

 

 

画面の向こうにいらっしゃるであろう貴方がふと思い立って、「ミュージカルを観に行こう!」とチケットを買って劇場に向かったとします。

チケットをもぎられ、ついに来ちゃったよ〜劇場〜なんて思いながらロビーに入りますよね。

そこできっと貴方が目撃するのは、ミュージカルが好きな老若男女……には変わりはないのですが、どちらかといえば老だし、どちらかといえば女、な、ご婦人方。

そうです、ミュージカルの劇場にはある一定の年齢以上のご婦人方しかいないと言っても過言ではありません。

社会の教科書でお馴染みの人口ピラミッドで表すなら、今にも崩れそうなアンバランスなピラミッド?釘?が出来上がります。

 

 

NHKの歌謡番組で氷川きよしに掛け声を送っているのが決まってご婦人方であるように、劇場のロビーでプログラムの見本を開いているのはもう殆どご婦人方です。

これはこれで風物詩的で良いのかなーなんて思ったりしますが、観劇後センチな気分で記憶を反芻し、この作品に込められたメッセージは…なんてところまで考え始めると、必ずと言っていいほど「色んな人に観てほしいなあ」と思うのです。

この間の某ザベート(チケ取れませんでした)のように、連日超満員!な作品なら話は別ですが、チケットがなかなか捌けずにどうしたものかと頭を抱えている作品も少なくないはず。

チケットがあるということはミュージカルを観るチャンスがあるということです。

そして、チャンスがあるのにそのチャンスを無駄にしているということです。

もったいない!

ミュージカル好きな人もそうじゃない人も!

みんな、今すぐチケット〇あに走れ!!

 

暴論じみてきたので少し落ち着かせてください…

 

 

そんなわけで、わたしは若い人、特にわたしのような10~20代前半の学生にもミュージカルを観てほしいのです。

やはり、若いうちのほうが作品に込められたメッセージを心に熱く燃やしておけるのかなー…みたいな、ぼんやりとした理由からです。

いや、たぶん本当はただ同年代の人に布教したいしあわよくば観劇仲間になってもらいたいというやましい理由からなのでしょうけど…。

 

 

何故若い人はミュージカルを観ないのか?

どうしたらミュージカルに若い人を集客できるのか?

という疑問は今更取り立てて話すほどのことではありません。

答えが見えているから。

それでは皆さん、お答えをご唱和ください。

せーの

 

チケットが高いから!

 

 ありがとうございます!!

その通りです。

チケット、高いです。

現に私はバイト代の殆どをチケットにあてますし(ぼっちだからなせる技です)、それでも財布の事情で観れない作品が出現します。

しかし、舞台は生物、それだけにかかるコストが並ではないことはわかっています。

13,000円貰ってもどうしても経営がぐらつくこともわかっています。

実際、全国の劇場で経営が上手くいっているところは少ないようですし…(わたしの大好きな中日劇場も、殆どの公演が赤字だったそう)

そのような製作側の事情も考慮した上で、

見切れ席や補助席やボックス席といった人気のない席を、どうか誰でも気軽に足を運べるような価格設定にしてくださると、とても嬉しいです。

と主張します。

だって、チケットが高くて友達を誘うにも気が引けるんですもの。

 

チケット価格以外にも、若い人にはその高級感(?)から壁を感じ、気が引けてしまう人もいるようです。

スケオタ出身のわたしはそんなに感じなかったのですが、どうも同年代の人からは「高尚だ」と思われているようです。

この高級感、特別感が良いんじゃないの、特別な1日になるよ、とわたしは思うのですが、それが壁になってしまっては本末転倒です。

しかし、高級感や特別感という壁を壊してしまうと、なんとなく品位に欠けて、今までの客層(ご婦人方)が離れてしまう。

単純に壁をぶち壊せとは言えない、難しいところです。

 

 

同年代の人にもっとミュージカルを観てほしい。

観てそれぞれの感想を語り合ってほしい。

しかしなかなか難しい事情がある…

なんとか新しい層を客席に呼び込むことは出来ないものか。

 

そこで指摘されるのが、「ミュージカル広告打たなさすぎ問題」とか、「ミュージカル映像ひた隠しにしすぎ問題」とかでしょう。

テレビを見ているとどの時間帯でも劇団四季のCMが流れるのに対し、わたしの好きな東宝ミュージカルは…?

(良いことではないけど)友達同士でDVDの貸し借りがされたり、気軽にレンタルができる媒体に比べ、映像が発売されないミュージカルの口コミでの拡散度は…?

この二つの問題はチケットが高い問題と同じくらい大きな問題でしょう。

これらを解決するためにも、やっぱり予算ですね。

予算…いちファンの素人にはどうにもできない領域です…。

 

 

わたしがTwitterで「この作品すごく良かった!」とつぶやいても、影響力は皆無に等しいし、もし誰かが「観てみたい」と食いついても、じゃあ13,000円ね!と返すのも気が引けます。

本当は奢ってあげたいくらいだけど。

だからミュージカルのえらい方、まだ見ぬ未来の観客のために、ミュージカルをより気軽なフレンドリーなものにしてください。

品位はそのままに、よりオープンな世界にしてください。

そのためにもまず、特別価格の席の販売を恒例化したり、テレビCMを流したり、DVDを発売したり、、、

お願いします!

 

 

以上、今日も頭の悪いポッポでした。

 

10月29日ソワレ Miss Saigon

はじめまして、ポッポ(はと)です。

何かを生産したくて文章でも書いてみようかと始めました、完全に3日坊主フラグです。

私が書くならやっぱミュージカル感想だよね、と、ワナドゥ手帳の感想欄すらうまく埋められない人間が稚拙で知性と品位の感じられない感想をインターネットに垂れ流すことをどうかお許しください。

 

※ストーリーにはそんなに触れてないつもりですが、見る人によってはネタバレっぽく感じるかもしれません

 

さて、記念すべき1回目は

ミュージカル「ミス・サイゴン」。

10月29日 17:00~ 帝国劇場にて観劇。贔屓の誕生日でした。贔屓〜!

キャストを書くのが面倒なので写真を貼ります。

デジタルはこういうとこ便利。

f:id:Poppo_810:20161031150044j:image

テレビの特集なんかで散々見てきたので、市村さんのエンジニアが楽しみだな~、とか、レミぶりに玲奈ちゃんや上野くんや知念さんに会えるぞ〜、とか、理生さんお誕生日おめでとう〜、とか、ほんとにゆるゆるな気持ちで来てしまったことをここで懺悔したいです。

 

いつも通りの帝国劇場(私はそんなに行ったことないけど)。

かと思いきや、売店がドリームランド仕様になっていたり、いつもはボードなんかが置いてある撮影スポットがハロウィン仕様になっていたり(関係無いけどTdV観たい)。

あとレミのポスターがいっぱいありました。

やった〜!!(レミオタ)

 

今回の席は2階G列下手側です。

ベトナム戦争時っぽいセット(ボキャ貧)を眺めつつオケピ見るの久しぶりだな~とかしみじみしつつ、着席。

チューニングの音が心地良い。

 

(今確認したら、8月に三銃士でオケピ見てた。意外と最近だ)

 

 

そろそろ本題に移ります。

ついに観れたぞミス・サイゴン

CDで予習はばっちりのつもりでの観劇です。

ざっと内容を書くと、

ベトナム戦争末期にベトナムの少女とアメリカの軍人が恋に落ちて、引き裂かれて、どうなっちゃうの〜!?」

を極限まで重くした感じです。

怒られそう。怒らないで。

 

 

Twitter見ればもっと脚本や演出に踏み込んだ話をしてる方がいっぱいいらっしゃるので、そのへんについては語りませんし語れません。

というわけで観てぼんやりと思ったことを書きます。

感性すら貧しくて申し訳ない。

 

 

先ず思ったのは「これ誰も悪くないじゃん」。

ぼんやりあらすじ(ほんとに粗い筋)を知っていた程度の頃はクリスがクズだのジョンがクズだの傍若無人すぎる勝手な印象を抱いていたけれど、改めてしっかりストーリーを追ってみると、誰が悪いわけでもないことに気づきました(頭悪い)。

強いて悪者を挙げるとしたら「ベトナム戦争」そのものです。

 

 

あと、ずっと疑問だった「結局主人公は誰なんだ」問題。

名前が一番上にあるエンジニアか?物語の中心にいるキムか?と悩み続けてきましたが、ようやく決着がつきました。

私が思うに2人のどちらでもなく、さっき悪者呼ばわりされた「ベトナム戦争」そのものが主人公なんだろうなと。

なんて恐ろしい主人公だ。

っていうのも、なんだろう、サイゴンバンコクのキム達、アトランタのクリス達の間に壁のような溝のようなものを感じてしまったからかな…?と思ってます。

キムが知らない世界、クリスが知らない世界をそれぞれ私たちは見せられます。知らなかったからこそのすれ違い?が生じていく様を見届けます。

そこになんとなく違和感を覚えたのです。

私が思うに一般的に主人公にはその物語の中で知らない世界は殆ど無いんですよ。

だから主人公は作中のどの人物でもなく戦争そのものだと感じてしまうのかもしれません。

全員が人ではなく時代にのみ翻弄されていたと思うし。

そう思った所為か、観劇後は馬鹿野郎戦争なんてくたばっちまえ、みたいな気持ちになりました…。

戦争さえ無ければキムもクリスも私の愛するトゥイももう少し幸せになれたと思うし…。

ああトゥイちゃん。

 

 

この作品、確かに何度も観るには重すぎるし、リピーターに支えられてる日本のミュージカル事情を思うと市村さんが居なくなる今後は頻繁に再演されることは無くなるのかもしれない。

それでも、この作品が観客に訴える「真実」は、次の世代へ次の世代へと語り継がれていく必要がある。

クソ重いし救いのない話だけど、大声でオススメします!とは言えない作品だけど、沢山の人に観てほしい。

そして、昔の話、他人事とは思わずに受け止めてほしい。

と、私は主張します。

 

 

愛の力とかで魔法みたいに世界が平和になればいいのになあ…と、頭の悪い感想を持ってしまったポッポでした。